おだやか日記

narrative based medicine~物語に基づく医療とは~

おだやか診療所です。

本日は、narrative based medicineについて書いていみたいと思います。

Narrative Base Medicine(NBM)とは?

医学界では、根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine:EBM)が行われてきました。EBMは、

  1. 患者さんに存在する問題を取り上げて
  2. その問題を扱っている論文などを探して
  3. 論文を批判的に吟味して
  4. 患者さんに適用し治療を行い
  5. その結果どうであったかを検討し、再度ⅰへ戻る。

というプロセスをたどります。しかしながらEBMは一般論というか確率論であり、すべての患者さんに当てはまるわけではありません。そこで、NBMという考え方が提唱されてきました。NBMは、

  1. 患者さんが語る物語から
  2. 病気だけではなく、患者さんの背景や人間関係を理解し
  3. 患者さんの抱える問題を全人的(身体的、精神・心理的、社会的)にアプローチしていく

という考え方です。EBMが客観性を重視しているのに対し、NBMは主観性を重視しているといえます。また、EBMは「答えは一つである」という考え方であるのに対し、NBMは「答えは患者さんの人数だけある」という考え方である、とも言えます。

さて、「Narrative」という単語ですが、これは「物語り」という意味になります。しかし、「物語り」といえば、「story」も物語りです。では、storyとnarrativeはどう違うのでしょうか?

storyは、基本的に一本道の物語のことを指します。小説などが当てはまります。ゲームで言えば、「ファイナルファンタジー」シリーズが該当します。

一方、narrativeは、一本道ではなく、さまざまなルートが存在する物語りです。ゲームで言えば、「ロマンシング・サガ」シリーズが該当します。

人生で言えば、人間は「生まれてくること」「いつかは死ぬこと」は確定していますが、その間どう生きるかは人それぞれ違います。その違いのある物語を指して、「narrative」と言います。患者さん一人一人に異なる物語りがあるということ、一人の患者さんをとっても「現在」までの物語はstoryですが、未来の物語りはnarrativeということになります。

Narrativeとは

Narrativeとは、患者さん一人一人の物語り、とくに現在から未来にかけての物語りです。この物語に寄り添うということは、訪問診療医のみならず、訪問看護師、訪問介護士、訪問薬剤師、ケアマネジャー、その他患者さんに関わる人全員が意識していく必要があります。

我々が患者さんに関わるとき、その多くは患者さんの晩年ということになります。ここから先、エピローグを迎える患者さんのnarrativeをどのように描かれるのか、そこには我々の立ち振る舞いも大きく影響しています。患者さん自身が思い描いている物語りを理解し、その物語りに我々も登場人物の一員となり、患者さんが思い描く物語りの通りになるよう、寄り添っていくことが大切になります。

患者さんの物語りの登場人物になることを、「物語に招かれる」と言いますが、これはなかなか理解が難しい表現かなと考えています。基本的には、患者さんから信頼されていれば、物語に招かれた(つまり患者さんの物語りの登場人物の一員となった)と判断してよいでしょう。認知症の方が介護を拒否する場合、その人にとって介護をする人は物語りの一員となっていないから、とも考えられます。

どうすれば患者さんの物語りに招かれるのか、これは非常に難しい質問です。ある意味、できる人は自然にできているが、できないひとはどうやってもできないようにも感じます。ただし、患者さんの物語りに招かれない人の特徴はわかっています。それは、患者さんの物語りを聞こうとせず、理解しようとせず、自分の物語りを一方的に押し付ける人です(簡単に言えば、人の話を聞かず自分の考えを一方的に押し付けるということです)。医者で言えば、患者さんの訴えを聞こうとせず、「はい、風邪ですから薬出しときますねー」と対応してしまうと患者さんは「自分の話を聞いてくれなかった」と感じます。介護士で言えば、食べたくないのに無理やり食べさせる、ゆっくり食べたいのに10分で食事を片付けてしまうといった行動をしたときに、利用者さんは心を閉ざしてしまいます。

ここで、例として風邪をひいて受診した患者さんの例を挙げてみます。

医師:「お待たせしました、今日はどうなさいましたか?」

患者:「2日前くらいから咳が出て、のどが痛くて、鼻水も出て、なんだか風邪をひいたみたいなんですよね」

医師:「その他に何か症状はありますか?」

患者:「ちょっと熱っぽいです。あと痰もでます。」

医師:「家族や職場などで風邪は流行っていますか?」

患者①:「ええ、流行ってます。たぶん職場の同僚からうつされたんだと思います」

患者②:「ええ、流行っています。そのころ寝不足で、免疫力が落ちていたんだと思います」

ここで、患者①と患者②の物語りが分かれました。EBMの立場からは、職場の同僚からウイルス(細菌)が感染したと考えます。しかし、NBMの立場からは、患者①は「感染した」という物語りを形成しているが、患者②は「免疫力が落ちた」という物語りを形成していると考えます。このように、病気の原因一つをとっても、患者さんの数だけ答えがあるという考え方がnarrativeということができます。

認知症とNarrative

認知症の方の対応では、過去のstory、現在~未来のnarrativeがともに重要となります。

まず、その人の生活史(story)を知ることにより、現在の行動の理由が理解できるようになります。いわゆるBPSD(行動・心理症状)も、生活史を知っていれば、その人にとっては当然の行動であることがほとんどであると理解できます。

たとえば、施設入居の方で、夕方17:30ごろになると毎日他の入居者さんの部屋に入って、窓を閉める人がいました。この行動をなぜ行うのか、と考えた時に、その方は中学校の校長先生を務めていた人であることが答えを教えてくれました。つまり、校長時代に、校舎を歩き回り、戸締りがきちんとしているのか毎日チェックしていた、ということが現在の症状に現れているわけです。

この場合、本人の物語りの中では、自分は校長先生なのです。夕方の行動を「徘徊」と考えた場合、本人の物語りと食い違うため、「歩き回らないでください」という声掛けは、NGとなります。自分の物語りを否定されたら、否定した人を物語に招くでしょうか?招くわけがありません。そこで物語の扉が閉まり、注意した人のことを「嫌」だと思うようになります。また、自分の物語りを否定されたら、不安になります。この不安が、介護拒否や焦燥などのBPSDにつながっていきます。

さて、この方の場合、さりげなく物語りの方向を修正することにより、夕方の戸締りは行わなくなりました。それは、「校長先生、今日の戸締りは教頭先生がやりましたよ」というたわいもない声掛けです。たわいもない声掛けですが、「校長先生」という声掛けにより、本人の物語りを理解しているというメッセージになります。また、「教頭先生が戸締りをした」という声掛けで、「戸締りはすでに行っています。安心してください」というメッセージになります。実際に校長だったころも、常に自分で戸締りをしていたわけではなく、教頭先生や他の先生が戸締りを行うこともあったはずです。したがって、この声掛けは本人の物語りの否定にはならず、なおかつさりげなく修正をして、BPSDが消失したという事例です。

認知症が進行してくると、本人から現在の物語りを聞くことは困難になってきます。しかし、過去の物語りを知ることにより、現在の物語りを推測し、未来の物語りの登場人物の一員となることは不可能ではありません。

こう書くと難しいこと言ってるなと思われる方もいるでしょうが、簡単に言えば本人に安心してもらう、信頼してもらうことによりBPSDは消えていくということです。

なお、ユマニチュードもある意味、物語りに招かれるための技法ということもできます。

末期がんとNarrative

末期がんのターミナルの場合、本人や家族は物語りの急な修正を迫られていると考えることができます。そのため、「怒り」「否認」といった感情が出るのは、ある意味では当然です。人はいつか必ず死ぬといっても、それが現実のものになると怖いのは当然です。その不安は非常に大きいため、末期がんの方の物語りに招かれるために必要なことは、「不安を取り除く」ことになります。

そのために必要なことは、まず本人の話をしっかりと聞くことです。いわゆる傾聴ですが、ただ黙って聞いているだけでは意味がありません。相槌をする、「苦しかったのですね」「そうなんですね」といった共感の言葉を時折はさむことにより、本人の話を理解していますというメッセージを送ることができます。

本人の悩み、痛みは多岐にわたります。

緩和ケアー4つの苦しみ

本人の訴えを聞き、理解し、理解したというメッセージを送り、そして少しでも悩みや痛みを緩和するべく行動を起こします。

末期がんの方は、時々標準的な治療ではない(いわゆる代替療法)を行うことがあります。これは、何かに希望を見出したいという気持ちから行うことが多いです。医師は、代替療法がほぼ効果がないことを知っていますが、だからといって「それは意味ないよ」ということを私は末期がんの方に言うことはありません。末期癌であっても、やれることがあればやりたいという本人の物語りを否定することになるからです。アガリクス、ビタミンC大量点滴、中国から取り寄せた漢方薬、いままでいろいろな代替療法をする人をみてきました(実はこのことは、スーパードクターKという漫画に取り上げられています)。

末期がんのお看取りでのNBMは、本人の物語りを聞き、そこに我々も参加し、本人が「この状況なら安心できる」という環境を探し、その環境に近づけるということになります。

さて、末期がんでは特に家族も重要となってきます。家族の介護負担などにも注意する必要がありますが、よく問題になることが、本人が食事をとれなくなってきたときの点滴です。家族は点滴を希望することが多いです。家族の物語りに沿うなら、点滴を行うことになります。しかし、本人が点滴を希望することは、私の経験では多くありません。また、医療従事者であれば、末期状態で食事がとれなくなった時の点滴は、本人にとってかえって苦痛になるということを知っています(胸水、腹水がたまる、むくみが出る)。現在の本人の苦痛が脱水によってもたらされていると判断される場合には補液は必要ですが、ほとんどの場合点滴は必要としませんし、また延命効果はありません。

では、家族はなぜ点滴を希望するのでしょうか?それは、「何もやっていないことに耐えられない」「何か治療をしてほしい」「食べられないと本人が苦しいのではないか」という思いからくることが多いと考えられます。末期がんのお看取りの初期(まだ食事をとれている時期)から、食事がとれなくなった時に家族のこういう思いが出ることを想定し、点滴はほとんど意味がなく帰って本人が苦しむこと、やや脱水気味の方が胸水や腹水などがなく本人も苦しみがないこと、点滴以外に家族ができることがあるということ、これらを家族に伝えていく必要があります。大それた表現をすると、想定される家族の未来の物語りを修正していくわけです(修正というよりは、本人が苦痛をなるべく感じないように家族にも緩和ケアを行うというイメージです)。

また、「遠くの親戚」も大きな問題となります。突然現れ、「こんな状態で何で入院させないんだ!」とわめき、家での看取りを希望している本人の考えを重視せず、うまくいっていた物語りが崩壊してしまいます。

では、「遠くの親戚」の物語りはどうなっているのでしょう。ここで考えられる物語りは、「自分が知らない間に状態が悪化した。その間自分は何もしてあげることができなかった」「状態が悪いときは入院するのが当たり前だろう」ということです。まず、「何もしてあげられなかった」という本人の悔いを受け止める必要があります。「できるだけのことをしてあげたいのですね」。

その思いを受け止めたうえで、本人の希望、本人はこれまで十分頑張ってきたことなどを説明します。また、家族がどれだけ頑張ってきたかも説明し、「もう十分頑張りました。ここまで頑張られた方ですので、最期は本人の望み通りにしてあげてもよいかもしれませんね」などとお話をします。

「遠くの親戚」問題は在宅で看取りを行う医師の間では有名なものです。お看取りのスタート時に、本人や家族に「遠くの親戚」問題についても話して置き、親戚にも本人の希望を伝えることにより、回避できる可能性は上がります。

まとめ

NBMという巨大なものをまとめることはできません。

注意事項としては、EBMとNBMは対立するものではなく、お互いを補完しあうものであるということです。在宅医療の現場では、「治す」から「支えるへ」、「cure」から[care」へと言われることが多いのですが、これは「EBM」から「NBM」へと言っていることとほぼ同義です。しかし、私が思う在宅医療は「care」時々「cure」です。認知症や末期がん、その他の疾患であっても、根治が難しい病気に対しては、本人がなるべく苦しまないように「支え」ていき、肺炎や尿路感染などになったらそれを「治す」医療を行うことにより、在宅でのおだやかな生活を送っていただくことが我々の役目です。

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